FILM VIRUS

映画鑑賞、お金、日々思うことについて

『A』(1998)

 

「あなたが右だろうが左だろうが関係ない。保守とリベラルも分けるつもりはない。」これは森達也監督の最新作『i-新聞記者ドキュメント-』(2019)のご自身によるコメントである。この『A』という非常に刺激的な作品を見るには、あらゆる色眼鏡を外し、バイアスの鎧を脱ぎ捨てて画面を見つめることが大切である。だがそんなことは毛頭無理であるし、むしろ極端に思考が寄っている状態から見て果たしてどうなるか、というところが大事であるかもしれない。

 

この映画が非常に刺激的であるのは、どこが現実で、どこが虚構かが分からない点である。

オウム信者と警察が職務質問において一悶着する「ショッキング」なシーンがある。オウム信者に対して「横暴的に」職務質問を行い、最終的に「不当逮捕」にまで至るというシークエンスである。多くの人がオウム信者側の視点に立って見るところであると思う。

しかしながら職務質問や逮捕という行為それ自体に対して、我々は日々どこまでバイアスをかけているだろうか。私自身は特に思い入れのない50:50のものである。だが単刀直入に言えば、私はここでオウム信者に対する同情の念を抱いた。

これには撮影する段階、編集をする段階でその方向に仕向けていると思う(悪い意味ではなく)。撮影の時点では、通行人の顔がわかるように撮られている。関わらないようにしと我関せずの表情、笑顔の表情などがある。編集の時点では、音楽の使い方である。ここでBGMの音が流れている箇所があり、現場での声や音が「聞こえない」ようになっている。

しかしそういった操作が何かの意図があったなかったを考えるよりも、我々が「観賞する」という段階においての恣意的な見方はなかったのかというところが気になる。というのは職務質問が始まってから私たちは見たいものを見たいように見ている。それは映像の中の具体的な人や物、またオウム信者に対する憐憫の目で見ている、というようなことである。この状態で起こる「オウム信者と警察が一緒に倒れる」シーンからどのような意図を汲み取るかということの結果は自ずと唯一となる。その突然の出来事に対して本当にどちらかを完全な悪として認識できるに足る映像となっていたか、を何人が「検証」したのだろう。

 

地下鉄サリン事件は私がまだ物心つかない頃に起きた出来事であり、記録として認識をした。だからこそ凶悪集団による凶悪犯罪というレッテル貼りを無意識のうちにしてしまっている。しかしこの映画では「凶悪」という言葉の意味からは程遠い、信者の長閑で逞しい過ごし方が描かれている。

「荒木さんまとめられないんだから、一般の社会に入った方がいいよ」とアドバイスするオバさん。私は本当にここで怒りが湧いた。本来ならその気持ちを一定期間肯定しながらいるのだが、果たして自分がそこにいたらその言葉をどういう気持ちで聞いているのだろうかと考えると、そういう気持ちには決してなれない。

 

 

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 佐村河内氏の騒動におけるドキュメンタリー映画

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